記事タイトル:縄延びについて 


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お名前: 大阪・「残日録」・横山稔    URL
近所の公園で上を見上げている人がいる。桜がひとつふたつ花を開いたのです。
                  *
「江戸時代の人口増加」について横はいりします。
次の本は 小学高学年〜大人向きの歴史新入門的な本です。歴史を人口という視点から
検証していく刺激的な本です。興味ある方はご覧ください。

http://www.kasetu.co.jp/book15005.html
板倉聖宣 『日本歴史入門』仮説社 1200円
 〔目次〕
  1●人口と時代(江戸時代)
  2●人口と時代(近現代)
  3●米と人口
  4●江戸時代の前期
  5●江戸時代の進歩
[2006年3月28日 9時15分36秒]

お名前: 後藤 圭司   
kochan さん, こんにちは。

庄内は依然として日本有数の産米地であり続けたのですね。

ところで,縄延びの件ですが,この言葉が普遍的な日本語として定着していることを重く評価し
たい,と思います。

そうしますと,その発祥は,前回「風の果て」の桑山又左衛門の発言として紹介しましたように,
「昔の」新田開発に対する農民の努力に応えて,藩が与えた褒賞である,という説の重みが増す
ように思います。

徳川時代は,うち続く戦乱が静まって平和の世でした。天下泰平の世には一般に人口が増え,文
化が栄えます。これを支えるのが米で代表される食料です。したがって,昔だけではありません,
「今」の世も,絶えず荒れ地を開拓して米の増産,つまり新田開拓を進めねばなりません。桑山
家老も太蔵が原の開発で成功を収め,ついには主席家老に登り詰めます。

では,藤沢文学の時代,どの程度の人口増があったのでしょうか。

「今」の舞台は元禄から天保の改革あたりまで(1688-1841)でしょうか。「昔」は幕府開設の
慶長(1603)と見ればよいでしょう。

現代も人口問題は非常に大きな関心事ですが,その統計は殆ど明治以降のものしかありません。
ただ一つ,「国立社会保障・人工問題研究所」のサイトに,「近代以前の日本人口」の簡単な
表があり,慶長(1600),弘化(1846)の区切りがありますので,それらの人口を見ますと,
12.273 〜 32.297 百万人です。

何と,この246年間に人口は2.6倍,実数で2千万人も増えています。大まかに言って,このこと
は「米」の増産もこれと平行していることを意味します。

いかに新田開発の努力が続けられたか分かりますし,そのかなりの部分が農家によって行われ,
殿様側としても,何か目に見える形でこれに報いなければならなかった,その一つが縄延びであっ
た,と思われるのです。

いつも雑駁な意見で済みません。
[2006年3月25日 15時21分59秒]

お名前: kochan   
 横山さんこんばんは

 鶴岡の桜のつぼみも大きくなってきましたよ。でも咲くのは来月の末だろうと思います。
 ここで知り合えた皆さんといつか鶴岡公園の茶屋で大宴会してみたいなぁ。
 でもごっつぉ(ご馳走)はたいしたものは期待できませんよ。でかくて厚い油揚げのおでんと
か、つゆのしみたしいたけとたけのことか。あるいは松ノ木橋の団子と熱燗は酒豪向きです。次
の日に思い切りムカムカするかも...
[2006年3月23日 23時15分54秒]

お名前: 大阪・「残日録」・横山稔    URL
大阪では 桜のつぼみに桃色が見えたりしてます。もうすぐでんなあ。

後藤さんの書き込みは刺激的です。
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「蝉しぐれ」の文四郎こと牧助左右衛門が出仕したときの職は,郷村出役見習でした。
日に灼け,脚を棒にしながら田圃の見回りに勤めたのです。
二十数年後,お福さまと再会したときは,郡奉行に立身しており,
お福さまに「文四郎さんも出世なされて」と言わせました。
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お福さまは、県の農政部長に昇進されたことをいっているのですね。
われらの文四郎君は 足を棒にした真っ黒く焼けた顔の現場公務員氏
をしていると印象が強くありましたので、
映画「蝉しぐれ」で まるで歌舞伎役者みたいな(笑)色白のいい男が
でてきたので、「あれ」と思ったりしましたが、部長室でのデスクワー
クだったら、色も白くなるのでしょうね。

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ホームページ「残日録」に 関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』
などを 改訂しました。

花見では、ほどほどにね。何を? すべてをね。
[2006年3月23日 9時27分20秒]

お名前:  kochan   
 そうですね。そう単純に幕府に石高はごまかせる訳がありません。私のハテナもそこにあります。

 何で聞いたか忘れてしまって申し訳ないのですが、酒井家が荘内に封じられた時、徳川の重鎮
にしては石高が少ないと不満もあったものの、東北の守りの重要ポイントであることと、実際の
録はもっとあるというのが説得材料であったそうです。
 実際、「義民が駆ける」の冒頭に、「〜天保飢餓と呼ばれた時期に一人の飢餓者も出さなかっ
たことは、他藩の羨望の的となった」ともあります。
 私が書いた土地改良云々というのは昭和の話ですので、昭和まで縄延びは実質継承されている
という訳です。私の父のうそっぽい話では、縄延びが藩主の善政としてイメージされています。
 「百姓と言えども二君に仕えず」というのは、果たしてそういう君主に対する思いであったか
と思ってしまいます。
 少し前の荘内日報には荘内における「太閤の見地」は厳しかったという説もありました。

 最近の山形県の米の収穫量は全国で5番目ぐらいなのですが、ここ荘内の人口に対する米の収
穫量は断突で1位です。3割転作の時代に人口一人当たり年5百数十キロの米が産出されるのが
荘内なのです。これは今の時代には過剰すぎて返って大変なのですが、米至上の時代には荘内に
勝る土地は無かったはずです。
 そういう意味では、米に関しては荘内は普通じゃないのかもしれませんね。
 だからこそ、縄延びがあるのは幕府の時代に普通じゃないと思いませんか?

 充分な調べもなくて問いかけばかりですみません。
[2006年3月22日 23時53分14秒]

お名前: 後藤 圭司   
ご提案の通りで,ここは殿様側の政治手法の如何にかかわりましょう。ただし,下記には留意す
る必要があった,と思われます。

徳川幕府では,全国を支配している以上,各藩の内情には通じていたと思われます。旗本・御
家人には地方出身者もいましたし,幕府からも,「用心棒シリーズ」に描かれるように,「嗅足」
などの密偵を放って調査していました。

「風の果て」には,国役の過酷さが描写されています。大凶作が続いていて,藩では家中藩士か
ら禄高2割の「借り上げ米」を続けるほどの財政困窮のなか,ご霊廟の普請,東海道修復,日光東
照宮の修理などと,2万両,4万両という出費を強いられ,藩では領内の富商から借金をして切
り抜けましたが,その借金はそのまま残って,赤字財政をますます逼迫化した,とされています。
-
まれには,土地の測量のやり直し,「新竿打ち」,によって縄延びを解消する方策もとられたよ
うです。「風の果て」では,120年据え置かれた縄延び,隠し田等を一掃すれば最大4割の年貢増
収になるとして,筆頭家老杉山中兵衛が新竿打ちの提案をするのに対し,主人公の新参家老,桑
山又左衛門が猛反対をする場面があります。又左衛門は,縄延びは,昔,荒れ地から新田を開墾
した時代の,百姓達の努力に対する藩の褒美であり,今日でも例年藩に年貢の借りを作っている
多数の百姓から,与えたものを取り上げるのは狂気の沙汰,もし強行すれば村々に騒動が起こる
のは火を見るより明らか,と主張しました。

いつも書き込みが長くなって恐縮です。
[2006年3月22日 16時14分17秒]

お名前: kochan   
 後藤さんありがとうございます。

 私が縄延びにについて、農民有利か殿様か?と書きましたのは、も少し?があったのです。

 縄が正規より延びていますから面積は小さくなりますが、もし殿様が故意でやっているとどう
なるでしょう???
 税率は殿様が決めますから、縄延び率は想定内です。幕府に届ける時には、石高をなるべく小
さく届けたのでは無いかしら?そして、「当方不如意につき、ご普請のご命令なにとぞご勘弁し
てちょ−だい」などと言ったのではないかと想像してみました。

 あり得ないでしょうか?
[2006年3月20日 21時17分21秒]

お名前: 後藤 圭司   
先日,kochan さんから頂戴した書き込みの中に,「縄延び」のお話があり,これが農民と殿様
のどちらに有利なのだろうか,と疑問を提示されました。

縄延びは,関東でも土地売買に関連して話題となることがあり,また「広辞苑」・ 「新明解国語
辞典」にも見出し語「縄延び・竿延び[広辞苑]」として採録されていて,すでに普遍的な日本語
になっているようです。

これは,田畑を間延びした物差しで小さく測るわけですから,農民側の利益になり,殿様の損
となります。なぜなら,農民は「土地台帳」の名目上の面積に比べて実はより広い土地を持ち,
そこから追加分の農作物を得ることができるからです。

殿様側は,これの対抗策として,毎年夏に今秋の収穫量を実地に予想する「倹見」を行い,それ
を基礎として年貢の高を決めたようです。この倹見は,藩財政の根幹ですから,その責任者であ
る「郡奉行」にとって最重要のお役目だったことでしょう。

「蝉しぐれ」の文四郎こと牧助左衛門が出仕したときの職は,郷村出役見習でした。日に灼け,
脚を棒にしながら田圃の見回りに勤めたのです。二十数年後,お福さまと再会したときは,郡奉
行に立身しており,お福さまに「文四郎さんも出世なされて」と言わせました。

間延びした書き込みで失礼いたします。
[2006年3月20日 20時47分25秒]
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