記事タイトル:思い出(3−(1)) 


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お名前: 慈々   
「藤沢周平に会いに行く(2)」

初めて会う事が出来た「藤沢周平」からは、長身痩躯で”思推の人”という印象を強く受けたものでした。

お邪魔したい、と言う私の言い分を聞き終えて、
「読者やファンの方達に会う事はほとんどしないのですが、雪国の人とは久しぶりなので・・、いいです
よ。おいで下さい」と。
「場所は、分かりますか」と、気遣っていただいた。

東久留米駅前からタクシーに乗り、「直木賞作家の藤沢周平先生のお宅ですがご存じてすか」
「いやぁ、知りませんね。そんな有名な方が住んでたんですか。住所は?」と言われ・・おつりはチップ
にと思っていたが、しっかりいただいて降りた。

「ここ、分かり難かったでしょ」と言うのが、藤沢周平の第一声だった。
思いやりを含んだ声音の優しさは、通された部屋の様、真夏日の暑さなどと相まって、20年余を経て
も、なお忘れられない出来事である。

藤沢周平が私ごときに会おうとした理由は「雪国の人」であった他に、もう一つあったようである。
それが、後に「春秋山伏記」に結実して行く事になったのであろうとは、程なくして分かった事であった
が。

その「もう一つの理由」と思われる、ある詩集を朗読することになった。
初めに、藤沢周平が朗読し、「いや、それは全然違います」と私が読んだ。
「ふ〜ん、ずいぶん違うんだね」と。

その日は、文字どおり時の経つのも忘れ、対話は六時間にも及んだ。

*文中、敬称を略させて頂いてます。
[2000年3月29日 10時58分18秒]

お名前: NONKO   
慈々さんへ
私もぜひぜひ、聞きたいです!
続きを教えて・・・ほしいです・・・お願いします。(^-^)
[2000年3月22日 22時59分19秒]

お名前: kochan   
うう〜 ここでやめないでェ(読者一同)
[2000年3月22日 17時41分2秒]

お名前: 大阪・「残日録」・横山稔    URL
 なるほど、藤沢さんの担当編集者でも 親戚でもなかったわけですね。おっかけを挙行されたわけだ。
 続編が楽しみです。ここに連載したあと、
藤沢周平さんとのおつきあいなどのホームページを作成してください。
                              (ファン一同)
 
[2000年3月22日 15時59分38秒]

お名前: 慈々   
「藤沢周平に会いに行く(1)」

皆さんは、「代表作時代小説」と言うアンソロジーをご存知ですか。
前年に発表された時代小説の短編集なのですが、昭和51年版には「鱗曇」が収録されています。
藤沢周平に会いに行こう、と決心したのはこの掌編を読んだ直後だったと思うのです。

当時、私は30歳で、時代小説では「山本周五郎・司馬遼太郎・海音寺潮五郎・五味康祐」等々を
乱読していた時期でした。
読書家ではあったと思うのですが、著者に会ってみようなどとは、思ってもみませんでした。

藤沢周平は、直木賞受賞から丸3年。多作ではありましたが、いわゆる「流行の人気作家」とは言
えなかったと思います。
ただ、私にとっては、心曳かれる作家でした。

直木賞受賞後のほとんどの作品を初出誌で読み、単行本で再読していたのですが、どの作品にも
等身大で現れる人物像、どの作品にも共通して描かれる、優しさ。
「暗い」と言われる作品にさえ、私には作者の「優しさ」が気にかかったのです。
安っぽいヒューマニズムなどではない、人間の持つ奥深さとでも言うのでしょうか。
「会ってみたい」と思ったゆえんです。会って確かめたかったのです。

私が読んでいるとおりなのか、作り事の「単なる小説」なのか。
その思いに駆られたのは、後にも先にも「藤沢周平」ただ一人でした。

後年「半生の記」に有るような、藤沢周平に対する予備知識はまったくありませんでした。
当然、会う手だては有りませんでしたから、住所と電話番号を調べ、直接交渉に意を決しました。

果たして、80編を越す作品を発表し、数編の連載を抱える多忙な作家が、どこの馬の骨とも分から
ない青二才の電話に、「会いましょう」と言ってくれるものかどうか・・。
[2000年3月21日 14時57分12秒]
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